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不定期ですが気楽に気ままにコラムをお届けします。記事も募集しています。ご希望の方は上のアドレスにメールで原稿をお送りください。

水澤伸治「へっちゃら」についてShinji Mizusawa

慎一のアルバム作成秘話が毎回興味深く、第一印象とは異なった聞き方ができて良かったので、自分もPGRメンバーだけに明かしておきたい作品の裏話を紹介したいと思います。とは言ってみたものの、慎一のメールの中であらかたの内容は、見事に言い当てられてしまいましたが(^_^;)

(01 想い抗いながら)(02 この世界のすべて)は2023年秋頃、ほぼ同時期に書かれた曲です。前作のアルバムでは、自分の中に存在する漠然とした感覚を「ボクの中の荒野」と表現したんだけれど、今回は「いま世界に起きている精神的、物理的に荒野をもたらすような様々な事象(ウクライナ、ガザ、諸々の震災)について歌にする」という明確な想いから作品が生まれました。「瓦礫、荒野」というワードを意識的に用い、この理不尽な世界の中で永遠に大切な人(達)を傍に感じながら生きていたい、という想いを両曲に込めたつもりです。頭の中にあったイメージが、慎一の「世界のどこかで」を聞いて固まった感じです。01は、マービン・ゲイの「What's going on 」をイメージしていると説明しなくてもわかったでしょう。

(03 ヘッチャラ)は、ニューオリンズ風セカンドラインのリズムを意識して作ってみました。青春の思い出と屈折した友情を謳った曲です。歌詞に使われているワードを見直してみると、改めて昭和生まれであることを実感しました(笑)「殴りたくなる」って表現も昭和世代の愛情表現で「巨人の星、あしたのジョー」ですね。それからご指摘の通り、わざとカタカナ表記にしています。アルバム・タイトル「へっちゃら」はThat's totally fine 、この曲の「ヘッチャラ」はI’m totally fine として使い分けたかったからです。

(04 路地裏の窓辺)は、小鉄くんとの散歩から出来た曲です。彼とは、よく路地裏を散歩します。夕方の散歩、特に夏の散歩では、それぞれの家庭から聞こえてくる生活の音や、夕餉の匂いに趣きがあります。そんな時間の中で生まれたメロディとイメージを、路地裏で慎ましく生きる者の歌にしました。歌詞の1番では、愛する人の帰りを待つ「私」の姿を描き、2番では時が経ち、星になって帰ることがない人を待つ歳老いた「私」の姿を描いた詩になっています。「雨上がりの夜空に」「愛し合って (るかい?)」というフレーズは、清志郎へのオマージュです。

(05 寝たふりしてる間に)は自分も含め、保守的になり、腰が重くなっている大人達、日本人を皮肉ると同時に鼓舞する曲です。慎一のコメント通り子どもの時は持っていたのに、大人になると喪失されるものについても歌っています。目の前の「それ」は、人それぞれが向き合わなければならないと思っていながら、そのまま放置してあるものです。

(06 got a feeling now)は、「アイアイアイ」というタイトルで、昨年のライブでも実は披露してました。ソロではバンドとは趣向を変えて、モータウンっぽいギターとホーンアレンジにしてみました。もろ「マイ・ガール」になってますけど(笑)コロナ禍でバンドの練習ができなくなった時に当たり前の日常を願って書いた曲です。ご察しの通り「I've got a〜」と「愛が〜」は言葉をかけています。ありがちなパターンですが、オールド感を演出するために敢えて取り入れてみました。

(07 三文ロック)は、オレなりのロックへの愛情表現、ロック讃歌です。学生の頃、PGRマガジンに投稿した文章「ロックンロールは水晶玉みたいだ」の内容と、ほぼ同じこと(ロックは分かるヤツにしかわかんね〜よ、みたいなこと)を言っているのが、自分でも可笑しかったです。この曲は大野のギターの独壇場ですね。これもご指摘通り、最後のソロはジミヘンのブードゥー・チャイルを意識しています。

(08 butterfly effect)は、必ず観ているNHKのドキュメンタリー番組に影響を受けて出来た曲です。タイトルも番組から頂きました。よーく聞いて頂くとアウトロ(3分23秒頃)の左アコギの音の中に、小鉄くんの「ワン!」という鳴き声が聞こえます。昼寝している彼のいる部屋でアコギの録音をしていたら、思いがけずシャウトしてくれたので、そのまま残すことにしました。今回の録音は、他の曲でもアンチA Iとして(笑)余計なギター音、ボーカルの声枯れ、ブレスなど、わざと残ておきました。そして「扉を開け放ち〜」というフレーズと、サビのリズムとメロディは「夜の扉」へのオマージュです。

(09 家路)は、これまた、ご指摘通りジョン・レノンっぽい音作りをイメージしてみました。ピアノとアコギの音色が、そこはかとなく似た雰囲気を出せたと思います。最後にレーシング・イン・ザ・ストリートのEストリート・バンド風コーラスを入れてみました。このコーラスの入れ方を、ずっと試してみたいと思ってたんだよね。

(10 陽の当たる場所へ)は、キーを半音上げて ギター、ボーカルの録音をし直し、ミックスもやり直してみました。オケのリバーブを調整して立体感を出し、ヴォーカルを前に出したつもりです。ティンパニーの響きなども前のシングル盤テイクより、フィル・スペクターっぽく仕上げられたと思え、自分としてはそれなりの進歩を感じています(笑)

慎一の楽曲から影響を受けて出来た「陽の当たる場所へ」をきっかけに、シンプルなメロディの歌作りの原点に帰った感じがします。今回のアレンジはリズムの上に仮歌を入れてから、バッキングを考えていく手法を採ってみました。大野がギターで参加してくれた曲は、期待以上に楽曲を引き立ててくれています。今回は俺もすべての曲でギターを弾き、ハモリも今まで以上に積極的に入れてみました。おそらくビートルズの新譜に刺激されたんだと思います。01のハモリは「ドライブ・マイカー」からインスパイアされたようです。

以前と比べて、自分で変化したと気づくのは楽曲へのアプローチだけでなく、歌詞に使われる言葉に「光、風、雨、虹、花など」自然が生み出すものが多くなっていることです。(慎一の曲にも、それを感じます)それは、おそらく「生と死」について、否が応でも向き合わなけばならない時期に我々が差し掛かっているからでしょう。残された時間の中で俺たちに出来ることは、歌を作って、その中に命を吹き込んで残していくことなのかもしれないね。いつまで歌うことや曲を作ることができるか分からないけれど、自分のペースで創作を楽しみながら、続けていければと思っています。

徒然なるままの長文、駄文にお付き合い頂き、ありがとうございました。次回作もよろしくお願いします。
そして最後に…約一年間、会社から帰って飯食って風呂入った後、ほぼ毎日のように寝るまで曲作りに没頭していた旦那さんを、呆れながらも放ったらかしにしておいてくれた奥さんに、深い感謝を捧げます。お陰様でやっとこさ完成させることができました。今後もご迷惑をお掛けすると思いますが、宜しくお願いします(笑)
水澤伸治

へっちゃら 配信情報はこちら

中村慎一「ESSENTIAL SONGS」配信記念コラムShinichi Nakamura

【プロローグ】
多重録音を始めた80年代はまだデジタル録音する術がなく、録音の最終段階まで全てカセットテープでやっていました。使っていた機材もまだMIDIなんてなくて、リズムボックス付きのカシオトーンを駆使して何時間もかけてラジカセでダビングしたりしていました。
1曲目の「僕よりひとりぼっち」は今回再録音しましたが、他の29曲はあまり音質の良くない当時のアナログ音源を今回できる限りのマスタリングを施したリマスタートラックです。一部聴き苦しいところがあったらごめんなさい。
自分の曲はどれもその当時の日記みたいで、時々聞き返すと懐かしかったり笑ってしまったり、感傷的になったりして、どれも自分にとっては大切な財産です。この愛おしい曲達をもっと誰かに聴いてほしいし、生きている間にデジタル化して残したいという強い気持ちは以前からありました。断片的ではありますが、このアルバムの収録曲は僕の青春のかけらを拾い集めたEssential Songsです。全曲通すと2時間ちょっとあるのでお好きなペースで自由に聴いてもらえるとありがたいです。
僕は何年経っても音楽に携わっている時間が何より幸せで、そういう気持ちが一生変わらずに続くなんて思っていなかったけれど、僕に音楽を作り表現する力を与えてくれた神様といつも側で耳を傾けてくれた友人たちに心から感謝します。そして溢れ出る様々な赤裸々な思いをこれからも音楽を通して伝えていければ満足です。
おそらく死ぬまで大好きな音楽を続けているであろう自分をこれからも応援したいと思います。

【音楽との出会い】
12歳から家にあった姉のアコースティックギターを弾きはじめて、作詞、作曲を始めたのは13か14歳頃からでした。それまで中学校で運動部に入っていた僕は、ある日「やるべきことはこれじゃない!」と気づき、退部して音楽を始めました。その後、学生時代は家に帰るとレコードを聴いたり、ギターを弾いて歌を書いたり歌ったりの毎日でした。
高校生の頃から自分の作った歌を録音するようになり、アルバムという形でカセットテープに保管したり友だちに聴かせたりするようになりました。ここで言うアルバムというのは、レコードのアルバムという意味合いより写真のアルバムみたいな感覚で今を閉じ込めておきたいという思いで作っていたような気がします。
少しずつギターだけの曲から他の楽器や音を重ねていき、徐々に多重録音にのめり込んでいきました。そしてカセットテープ一巻ずつアルバムという形でオリジナル楽曲の束を積み重ねていきました。
中学生の頃、親友の渡辺哲生と二人で始めたプレイガールズというなんでも面白半分に歌っちゃおうという遊びがルーツで、当時からプレイガールレコードというレーベル名を名乗っていました。それが現在のPGRの原点です。

【サウンド革命】
高校の頃、始めはギターとハーモニカだけだった僕の演奏は少しずつ進化していって、大学に入る頃には当時人気だったポータブルキーボードのカシオトーン301をベースに録音を開始しました。おそらくこのキーボードは世界一僕が可能性を追求したかもしれないくらい、イジクリ倒しました。(参考:僕のジュリエット)
僕が20代の中盤からはMIDIの登場で時代は大きく変わりました。ヤマハのクラビノーバをベースにカワイのシーケンサーで打ち込み、ローランドのシンセD-110を鳴らす形で一人でもほぼ完成した音楽が作れるようになりました。
現在はMacを駆使して主にKORGのアプリケーションを使い制作しています。楽器は以前に増してシュミレートされた音へと変化して、更に一人でも手軽に自由に音楽が作れるようにはなっていますが、多重録音の根本は今でも変わっていないと思います。

【バンド活動】
音楽を始めてから常に並行してバンド活動はしています。バンドとソロ活動は外と内くらい全く違うので逆に両方とも続けてこれたんだろうなと思います。長い間、バンドは僕にとって音楽活動という枠組だけではない、友人との貴重な時間もそこで培ってきました。それは現在でも変わりませんし、僕の生活の一部であり宝物であり誰にも邪魔されたくない領域でもあります。僕にとってバンドのメンバーは家族同然なんです。
現在のスラングの最初の前身は、LEOというバンドで、高校1、2年くらいだったと思います。主にビートルズのカバーをやっていたかと思います。その後、高校の友人と哲生と3人でエッセンスというトリオを組みましたが、シャムロック(のちにメジャーデビュー)たちとやった吉祥寺のライブを最後に解散します。この頃エレキアレルギーを発症して、しばらくエレキギターが弾けませんでした。しかし翌年には飯村と哲生の他に親友の竹内信一と共にフォークロックのバンド、JOYを結成します。このバンドは初のオリジナル曲だけのバンドで、周りから様々な反響があり、初めて自分の曲が世間に通用するという自信を付けさせてくれました。というのも当時はまだ18歳で、オリジナル曲を何曲も歌っているというだけで凄いことだったようです。
その後、大学に入ってからは再びエレキギターも弾くようになり、バンドはJOYを解散してスカイラブバンドに進化し、哲生の自宅の2階の彼の部屋をスタジオがわりに地道に練習に励んでいました。そんな場所を提供してくれた彼の両親には今でも感謝しています。後のスラングの基盤はこの時にできたと思っています。
一方で大学で今橋ショー、吉川達也、ゴブリン川端と出会い、ロリータ・コンプレックスを結成します。後にこのバンドはMESSに進化して、当時の東京のライブハウスでは学生アマチュアバンドの登竜門的なホリデーミュージックというのがあり、そこで準優勝するまで登り詰めました。
この頃のMESSでの経験が後のスラングの活動に大きな影響を与えました。当時まだ19歳で新宿JAMや渋谷のエッグマンに出ていたことは凄く自信につながりました。なにしろこのバンドもショーと二人で作ったオリジナル曲だけのバンドだったのですから。
1983年、MESSは解散して全てのバンド活動は一旦ストップしました。その後、大学で山田浩と、哲生の紹介で水澤伸治や中村直樹と出会い、PGRとしての活動に始めて力を入れていました。人脈が広がると、それをまとめた「PGRスターダスト」というアルバムを作りました。大村真名美やリズという女性陣も参加してPGRを更に盛り上げようと考えてPGRマガジンというミニコミ誌まで作りました。
そしてしばらくしてスラングの前身、バンド・オブ・ギャングがスタートします。
このバンドは関東学院大学オリーブ広場での雨の日のイベントで初めて人前で演奏しました。哲生、飯村とトリオで演奏したのはこの日が初めてだったと思います。このライブが僕にとっては大学とのお別れでもあり、スラングのスタートでもありました。
さて、スラングの現在までの活動報告は長く濃くなるので、また別の機会にお話ししたいと思います。

【今に至る軌跡】
中学生の終わり頃にはビートルズの曲はほとんどギターで弾けるほどでした。クラスの卒業パーティーで渡辺哲生とみんなの前でアコギで何曲か演奏したのを覚えています。
僕はよく音楽を掘り下げていく聴き方をします。ビートルズを起源とすれば、そこからバディホリーやエルビスまで聴くようになりました。母が持っていたエルビスのレコードはよく聴いていて、なんてカッコいいんだろう、と興奮したのを覚えています。もしかしたらこれが最初のロックンロールとの出会いだったのかもしれません。
当時テレビではアメリカンニューシネマといわれるイージーライダーやいちご白書のような映画をよく放送していて、それらから大きな影響を受けました。特に歌詞を書く上で、アメリカ映画の中のカッコいいセリフは良いフレーズを連想させます。ハードなロックンロールにも印象深い歌詞が必要だという考え方はこの頃植え付けられた気がします。また武者小路実篤、ヘルマン・ヘッセやゲーテなど有名な人の詩集を良く読んでいました。活字から得られるインスピレーションにも飢えていたんだと思います。

【向かう先にある何か】
高校は神田三崎町にあり、周りには誘惑が多すぎました。ただこの町で過ごした3年間は、今の自分を大きく形成してくれました。お茶の水、神保町、秋葉原。どこも歩いていける近場にあり、楽器、書籍、オーディオ、レコードと欲しいものが全て近場にあるというのは今考えたら僕にとっては贅沢すぎるロケーションでした。今でも時々、夢に夕方のニコライ堂が出てくるほどです。その高校時代にその辺りを徘徊しながら自分が好きな音楽はどういうものなのかだいたいわかり始めました。ただしどういう音楽を自分がこれからやっていけばいいのか、ということに関してはまだ迷走していました。
クラプトン、ジミヘン、ディラン、Sワンダー、スプリングスティーンなどは特にこの頃ハマっていました。

【大学時代〜そして大人になって】
大学に入ってからはパンクロック、エルビス・コステロ、トム・ウェイツ、リッキー・リー・ジョーンズなどをよく聴いていました。
コステロはリズが勧めてくれました。コステロを初めて聴いた時の印象はオシャレで凝ってるなという印象。それと歌が上手くて声が良い印象は最近のコステロを聴いても変わりません。明らかに当時の同世代の他のアーティストの中では格の違いを初期から発揮していて、そのカルスマ性はカッコいいなぁと男ながらに憧れました。
トム・ウェイツは衝撃でした。僕の概念をことごとく壊してくれて、その世界観の虜になりました。音楽は必ずしも表面的に綺麗じゃなくても、美しさや愛や優しさを表現できる。だからこそ素晴らしいということを教わりました。というかそれはディランも同じでダミ声で歌うことは逆に本当っぽく聴こえることが多いことを思い出させてくれました。トム・ウェイツは今までで最もカッコいいと思ったアーティストでディランと同じくらい僕に強い影響を与えてくれました。
ただ大学生活は酷いものでした。高校で成績の良かった僕は受験勉強もろくにせず推薦入学で横浜の大学に入りました。そもそも勉強が好きではない僕は、入学早々できたばかりの仲間たちと8ミリ映画の制作を始めました。その後、自分たちでサークルを立ち上げ、ダンスパーティーを開催したり、スポーツ合宿をしたりとやりたい放題でした。
暇があれば授業にも出ず、ロックサークルの部室や相棒の今橋ショーのアパートに入り浸り、酒を飲みながらギターをかき鳴らす毎日で、家に帰るのは週に2、3日でした。それも今考えればかけがえのない幸せな夢のような時間でしたが、結果、3年目で中退しました。

【広がっていく音楽制作の楽しさ】
話は変わりますが、これまで洋楽ばかり聴いてきた僕に衝撃的だったのは大滝詠一の存在です。作詞と作曲だけじゃダメだと感じたのはこの頃、19歳の頃です。一人でやるなら総合的に音楽を作れる力が必要で、それは同時に一人でも様々なことがもっとできるという音楽制作の可能性をすごく感じさせました。大滝詠一を知った時はまさに神との出会いを感じました。結局ナイアガラの全てのアルバム、シングルを聴き、神の領域を垣間見たのがこの頃でした。そして、ここでも掘り下げてフィルスペクターや50s、60sのアメリカンポップスもよく聴くようになりました。

【映画とポップミュージック】
僕は是非みんなに観てもらって考えてほしい映画が何本かあります。例えば「キリング・フィールド」、「愛は霧の中に」そして「セルピコ」など。
戦争の悲惨さ、動物虐待の真実、そして不正に立ち向かう勇気。どれも根底にあるものは愛と正義ということで、世の中は一見すべて丸く収まっているように見えて権力者が闇を隠して表面を綺麗に見せているだけ。それが人間社会の闇です。こういう問題を歌で取り上げると歌もなんとなくリアルすぎて汚く聞こえてしまう場合があります。だけど多かれ少なかれ歌えば少しは伝わると思って時々こういう内容を示唆した歌詞の曲も書いてきました。
そもそも当初のイギリスのパンクロックのように特に反体制のロックはメッセージ性が強く、パワーもあり、まるで60年代のフォークソングのようでした。でもファション性ばかりが取り上げられて社会に違う捉えられ方をしたのでミュージシャンはみんな追求するのをやめてしまったように感じます。
世の中の音楽はその後、闇を覆い隠すような作事的なものにどんどん変わっていって現代のポップミュージックの一部としてロックがあるに過ぎません。実際は公共の電波を通して言えないことだらけの世の中です。それは昔からそうだけど、歌いたいことも歌えないという、アーティストとしては最悪の事実がそこにはあります。若い頃、僕がプロのアーティストになるのが嫌だった一番の理由がそれでした。ある意味ロックは思想で、お金稼ぎのために大人の言いなりになるとか、一緒に続けてきた仲間を裏切るとかが正しいかどうかは本当にわかりませんでした。
自分を殺して世間が望む姿を演じ続けても尾崎豊のように絶望を背負うようにもなる。音楽は自由に楽しまなければ意味がない。それがロックンロールのあるべき姿だと今でも本気で思っています。

【音楽活動と私生活】
人は漠然と夢ばかり追っていると現実が嫌になってしまう。でも社会の中の一部として、普通の生活ができる人間でいなくちゃ冷静に世の中をみているような音楽は作れない。夢物語ばかり語っていると嘘っぽい音楽になる。常にそう自分に言い聞かせてきました。
音楽活動とは関係ありませんが、社会に出て最初の仕事は、原宿の子ども英会話スクールでのインストラクター兼広報の仕事でした。アルバイトから始めて5年ほど在職しました。ここで培った経験は現在でもかなりいきています。「ノスタルジア」という曲にしたくらい懐かしくて愛しい日々でした。
その後、25歳で結婚してしばらくしてから退社して何週間か、久々に職もなく自由な時間がありましたが、これからのことを考えると不安でいっぱいでした。
そんな時、いつもそばにいてくれたのがある冬の夜に保護したチビという子犬でした。
チビはいつも僕にべったりで、僕が仕事から帰るとうれしくてオシッコをしちゃうくらいでした。愛されるってこういうことかって、チビに教わった気がします。でもそれは同時に大きな責任を背負う覚悟があるのかという自分への問いにもなりました。でもその愛に応えることを決め、この迷子の子犬の一生を一緒に歩むことにしました。
就職、結婚、横浜での生活、失業、保護犬との生活、再就職、東京でのリスタート。そんな20代の私生活でした。

【リマスター作業について】
音楽の話に戻りますが、何曲かは最近流行りのAIを使いボーカルと演奏を分離して別トラックでボーカルだけ被せたりしています。
他にもアナログ音源の段階で左右のバランスがズレているものがあったので、ボーカルのみ抽出してモノラルにして被せたりもしています。
イコライジングは全曲調整しました。リバーブとディレイも調整しています。曲によってはノイズリダクションやコンプレッサーも調整しています。ただし、あくまでも原曲を損なわないように細心の注意を払いました。その時代の音が変わらないように極力配慮しています。
具体的な話をすると、マスタリングでガレージバンド(以下ガレバン)は使用しています。Korg gadget 2で最大の欠点がフェードアウトの不自然さなのでそこもガレバンで補っています。今回のアルバムのマスタリング作業は主にガレバンを使用しています。MacやiPhoneに標準装備のガレバンですが使い方によっては、すごく使えるアプリです。
結果、今回一番心配していたロスレスでの配信審査も無事通過できました。

【エピローグ】
まだまだ書きたいこともありますが、今回はこの辺で終わりにします。最後まで読んでくれてありがとうございます。
年老いて忘れてしまう前に、このような形で音楽活動にまつわる若かりし頃のこと、そして現在のこともお話しさせていただきました。
どんな曲を歌っていても僕は一人しかいませんし、音楽を始めた頃から僕の気持ちは大きく変わってはいません。バンドも含めて、このまま今後も音楽活動を続けていきます。
これからも応援よろしくお願いします。ありがとうございました!
中村慎一

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中村慎一「遠い夏の日」制作ノートShinichi Nakamura

まずこのアルバムに散りばめられているちょっとした小ネタについて書かなくちゃですね。
まず最初の「遠い夏の日」のエンディングには気づいた人も多いと思いますが 1983年当時にこの曲を歌った真名美ちゃんの歌声が後半に入ってきます。試しに被せてみたらテンポと音程が奇跡的にシンクロしてしまったので採用。
2曲目の「二人の浜辺」は新たに導入したギロを最初から最後まで手作業で鳴らしてます。けっこう疲れましたが、どうしても入れたかった。「潮騒」ではカスタネットをたくさん鳴らしてこれまた疲れましたが、改めてこの手の打楽器の重要性がよくわかりました。

「潮騒」は大学時代の思い出の曲で、入学してすぐに気の合う仲間と8ミリ映画を作ったんですが、そのテーマ曲でした。この仲間たちとは気が合って結束が強く、後にサークルに発展してスポーツ合宿やパーティーなども企画して、お金も動かしハードだけど楽しかったな。そんな結束を作るキッカケになった曲です。
今回は録音の段階でナイアガラサウンドを意識してましたが、到底及ばす自分で笑ってしまいましたが、このレコーディングは楽しかった。
「愛しのサリー」は個人的に好きな曲で今回入れました。この曲に限らず、コーラスの声が哲生の声に聞こえてしまうのは僕だけかな?長年一緒にやっていると不思議と歌声も似てくるのかもしれないな。
「うるわしの君」は別名「かすみのテーマ」で、当時読んでいたあだち充の「陽あたり良好」のイメージソングに勝手にしてました。哲生とのドリーミン2には彼の歌で収録されてます。そういう2人の曲みたいな経緯があるので今回の録音は結構気を使いました。当時はエレキギターが演奏の中心だったんですが、あえて違った感じでやりたかったのもあったし、綺麗に仕上げたかったのでエレキギターは最小限にしました。
そもそもこの曲は、昨日まで学校に行けば会えていた片想いの彼女と、長い夏休みになると会えなくなる寂しさ、そういう少年のピュアな気持ちを歌った歌なんです。
「夏のハートビート」の主役はドラマー。やる前からそれを意識しました。どの曲もそうだけどドラムはリアルでベードラ、ハイハット、スネア、シンバルくらいはキーボードで演奏して、後からタムを打ち込んだり、おかずを入れたり微調整します。この曲では叩きまくってますよ。
「浜辺の想い」は最初からスカにするつもりはなくて、オリジナル通りロッカバラードでいくつもりだったんですが、ドラムのアレンジがどうもまとまらず録音しながら試行錯誤してるうちにこうなってしまいました。さらに最後の最後にどうしても「いーやサッサ」が入れたくなり、SEを追加しました。
「サマーデイズ」も虫の声のSEから始まり、これまたコケコッコーのSEで歌に入ります。リズム的にはジッタリージンみたいにしたかったんです。これはこれでいいかな。
「恋愛の自由」は唯一「葉月歌集」からの選曲だけど、当初は「夢の中の君」か「恋路」をやる計画でした。でも「葉月歌集」の中でこの曲が一番好きなことに気づいて最終的にこれにしました。
「カポーテ」はとりあえず南国情緒を表現したかったので、慎一流サンバといったところです。あちこちに「チン」やら「カツ」やら「ポン」やら入ってますが。
「水平線のバラード」には頭と最後に手漕ぎボートを漕ぐ音とチャプチャプという波の音が入っているのですが、そもそもこの曲は真夜中に沖に向かってボートを漕いで消えていく男が最後の想いを呟いているイメージだったのでそうしました。
「愛しの流れ星」はディランとTHE BANDみたいな音にしたかったんです。なのでギターはロビーロバートソンを意識してます。ぜんぜんダメでしたが。
「気のないふりのI LOVE YOU」は不思議でした。もちろんピアノから始めたんですが、譜面も見ないで弾けました。まぁ簡単なんですが。
この曲には最後までベースは入ってなかったんですが、リズムが一切ないのはやはり変だったので後付けで入れました。
「ステラ」はこのアルバムの中で最も古い曲で、書いたのは確か1979年の秋から冬頃です。この頃はジミヘンが好きでエレキギターばかり弾いていました。1980年にエレキアレルギーを起こすまでは。曲調は常にディランでしたが。
最後に録音した「きっと誰かが愛してくれる」は弾き語りバージョンもあり、実はこれを最後まで採用していました。ただし本当は5番まであるこの曲の最後の一節を削ったことで何かが変わってしまい、急遽こっちを作成しました。
「エピローグ」はピアノを弾いていて浮かんできたので、作曲から録音まで5分で終わりました。そっかこれがこのアルバムに対する僕の答えなのかな、と思い採用しました。

若い頃の曲ばかりを集めてアルバムを制作してみて、なんか不思議な感覚に何度も襲われましたが、新たな音源として残せることは幸せです。当分こういう機会はないと思うけど、今まで僕を支えてくれた大勢の人たちの顔が何度も浮かんできて、心から感謝の気持ちでいっぱいです。
ありがとうございます。
中村慎一

遠い夏の日 配信情報はこちら

中村慎一「Cakes&Cafe」制作ノートShinichi Nakamura

前作以降、次はコーラスとギターをなるべく入れようと思ってた。ハーモニカも含めてマイクで音を拾うのでノイズが増えるという点とアナログからの信号のタイムラグがネックだったが、今回あまり気にならなかったので神経質に考え過ぎずに割と入れることができた。

アレンジ的にはベースラインを一番重要視した。個人的に一番好きなのは「ボクはピエロになる」のベースライン。 他の楽器の選択はインスピレーションでほぼ決まるけど、基本はピアノ、ドラムス、ベース。曲によって、ホーン、ストリングス、オルガンなどなど。サックスとホーンのシミュレーションは僕の永遠の課題だな。アナログはギター、ハーモニカ、ボーカル、コーラス、小物のパーカッション等。さらに音色を選んだり、エフェクトを選んだりと、それだけで結構な時間を要するが、最も楽しい時間なので苦にはならないよ。

作品に関して
歌詞をしっかり読みながら聴いてもらえるとわかることがあると思う。そういう作品ばかりなので。 1曲目の「YOKOHAMA Edge of Town」は大学時代の友人との日々のこと。
このアルバムで一番思い入れがあるのは「ボクはピエロになる」という曲。自分自身でも一番好きな曲だな。
「紬」は聴いての通りの曲。「Cakes&Cafe」も同じ感じに捉えてもらっていいのかな。両者とも深い意味はないですが、年老いてから人生のパートナーと生きていくことの大切さを歌ったつもり。
「Baby, I Can't Do」は聴いての通りリバプールサウンドをやりたかっただけでジョン・レノンを意識してます。次の「ボクはピエロになる」のイントロのハープにもそこら辺のユーモア?が続きます。
天井に貼ってあるポスターを「アイドル」としましたが、ここ作曲の段階では「キャンディーズ」でした。これは若い頃のバンドのベース君の部屋からヒントを得た曲ということだな(笑)。
「ひきこもり」と「不完全燃焼」は一見、社会から逃避した人間の歌のように聞こえるかもしれないが、彼らは無類の愛なんて無いとわかれば天使か悪魔になります(笑)。「ひきこもり」のキーワードはばあちゃんが救世主みたいに聴こえることかな。「不完全燃焼」は路地裏の猫が救世主かな。もし若い頃の自分に会えたらの部分に関しては、今の人間関係は崩したくないブラッシュアップライフ的なイメージで作った。ただ実際には何が言いたいか自分でもよくわからない。強いて言うなら、どんな人生を送ろうが潜在的にダメな人間なんていないと言うことかな。
「僕のやり方」は20代の若輩者の戯言だな。でも人間っていつまでも未熟で完成度が低いから、だからこそ人生は楽しいんじゃないかな?身近な人にはどんどん迷惑かければいいと思うし、大抵はそれでもそばにいてくれるでしょ?ほんとに嫌なら逃げ出すよな。
スラング曲でもソロ曲でも、僕の曲になんらかのメッセージがあるとしたら「世界のどこかで」で歌ってる「希望、それはいつでも生きる力になるんだから」と「太陽のように」で歌ってる「いつまでも太陽のように笑ってそばにいてくれたならうれしいけれど、どうか幸せに」というこの二つなんだろうな。
そんなふうに自分を鼓舞しながら生きてきた気がする。
後から聴いてて思ったが「太陽のように」は娘を嫁に出す父親の歌になってるよね。そんなつもりはなかったんだけど。僕には娘もいないし。
10代の頃から僕にとって曲を書くこと、詩を書くこと、それを曲という形にすることは、常に生活とワンセットで、そうしないと生きれなかったのはなぜなんだろうと考えることがある。
でもそれにはきっとなんか意味があるんだと思うけど死ぬまで曲を書いて、録音して、そこへ届けるしかできないから、その答えに辿り着くことはないかもしれないな。

2021年からはたくさん曲を書いた。犬の散歩をしてる時にメロディや詩が浮かぶことが多くて、道端でスマホで鼻歌を録音して、家に戻って曲にするようなことが何度もある。
最近はギターを弾きながら作曲することはあまりないな。詩は真夜中に酒を飲んでる時に浮かぶことが多く、これまたスマホのメモ帳に書き残しておいて、翌日とかにそれにメロディを付けたりする。
タイトルやキーワードが先に浮かぶことも多くて、そこからのイメージで曲を書くのは楽しいよ。例えば「戦争を知らない子供たちの子供たち」というキーワードまたはタイトルがあったとしたら、それから創造できることってたくさんあるじゃない?
でも何を歌ってもいい訳ではない。たとえ商業目的じゃなくても、そこにシンガーソングライターのプライドみたいなものがあるんだと思う。自分の感情をどう曲に込めて、表現して、それを伝えられるかだけのことだけど、それが一番難しいから。

Cakes&Cafe 配信情報はこちら
中村慎一

水澤伸治「あしたのジョー・聖地巡礼レポート」Shinji Mizusawa

namidabashi

先日、「あしたのジョーの聖地」三ノ輪に7年ぶりに行って参りました。オレがあしたのジョーの大ファンなことは知ってるよね?哲生、慎一もファンだったと思うので、今回は聖地巡礼レポートをお届けします。
まず、2014年の巡礼レポートから!

泪橋を逆に渡れ!橋はないけど。

joe

この街のどこかにジョーが…


マガジン初連載の表紙です。

joe

ジョーのふるさと いろは商店街
joe

3Dのジョーの髪型はちょっとビミョー?
joe

玉姫公園も実在してます。でも中は、ホームレスの宿泊所と化してます。

joe

 

 

 

こっちの公園(白鬚東公園)ほうが漫画に近い雰囲気。
joe

 

ここから2021年再訪レポートです。
紀ちゃんと行く約束だった向島百花園、第10巻

joe

白鬚橋までランニングだ!
joe

 

 

下町、ドヤ街のシンボル。

joe


2014年時、垂れ幕の飾られていたアーケードは老朽化の為なくなってしまい、同時にジョー関連のものも、像以外なくなってました。

joe

ふるさとがまた一つなくなってしまった…。でも、ジョーと葉子のツーショットを玉姫神社で発見!幸せそうで良かった!

joe

 

 

 

ジョーは今も生きている!

joe

ドヤ街は今も路上で寝てる人や食料受給を求める人々の姿が見られます。コロナの影響で2014年時より多くなった印象です。 ここは、かつての蒲田川崎に雰囲気が似てる気がして好きです。 以上、お付き合い頂きましてありがとうございます。楽しめたでしょうか? 次に行くのはいつかなー?

水澤伸治

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【後日談】
2011年に、山P主演で実写映画化されたのを機に、ジョーの像(立つんだ!像)の設置と、商店街興しが2012年に行われたようです。50を過ぎてから、ぶらり散歩が趣味になり、本当にたまたま足を向けたのが2014年でした。そして最近Kindle版で全巻を購入再読し、感動醒めやらぬうちに先日、再訪を果たしたわけです。
2017年には既に商店街のアーケードは取り壊されていたようで、ジョーの面影も消え去りかけていました。ジョーの像もかなり色褪せていて、もしかすると、何年かのうちに撤去されてしまうかもしれません。会いに行くならお早めに!
街は随分と近代化されてきたようですが、今でも山谷ブルースに歌われた人々、慎一がかつて見た労働者たちは今尚この地に生きています。
さすがに人に向けてシャッターを切ることはしなかったけれど、半けつ出しながら上半身裸で寝てる人、靴を履かずにビニールを足に巻いて歩いてる人、支援センター前に昼食を貰うため長蛇の列をなす人々など、現代日本の現実を、まざまざと見せつけられました。懐かしさと同時に、様々なことを考えさせてくれる場所です。
水澤伸治

渡辺哲生「男はつらいよ」Tetsuo Watanabe

突然ですが、久しぶりに「男はつらいよ」を観ました。
たまたま観たのは第22作「噂の寅次郎」(マドンナ:大原麗子)ですが、・・・やっぱり良いですな、寅さんは!独りで声を出して笑い、泣いてしまいます。
「男はつらいよ」全作品をちゃんと観たわけではありませんが、作品の中には少しひねったものもある中で、この作品は寅さんの典型的なパターンの作品で、展開が読めるだけに寅さんが登場するだけでもうクスクス笑っていたり目が潤んできたりします(年齢のせいでもありますが)。
以前から自分が好きな作は第32作「口笛を吹く寅次郎」(マドンナ:竹下景子)なのですが、あるテレビ番組で「男はつらいよ」フリークたちの一番好きな作品に選ばれてました。
ビートルズなど万人が良いというものと嗜好が一致する自分って、寅さんから言わせれば「面白くもおかしくもない男」って言われそうですが、先の「噂の寅次郎」の中でさくらの旦那のヒロシの父親(志村喬)が、さくらに「親の自分に似て面白くもおかしくもない男だがこれからもよろしく頼みます」と言う場面は何かジンときました。
渡辺哲生

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寅さんは、高校時代に鍵山ンチで、よくみんな一緒になって観てたよ。個人的には浅丘ルリ子がマドンナ役だった回が特に印象に残ってます。高校時代の思い出と共に、日本人にとってソウルフードみたいなもの。正月映画っていえば寅さんだったよね。
写真は2016年に柴又にブラリ散歩に行った時に撮った写真です。

toratoratora

ちなみに、現在では、寅さんのそばに、さくらの像も建てられたらしいです。
NHKのドラマ少年寅次郎を観て、ホンマもんの寅さんが観たくなり、Amazonプライムで一番最初に映画になった寅さんも観ました。
そこで驚いたことがありました。あの頃は何とも思わなかった寅さんの行動が、具体的には、寅さんがさくらに手をあげる場面を見て、今は許容できない自分がいるという事実でした。勿論、愛情ゆえの不器用な表現だということは承知なのですが、女性に暴力を奮うことが生理的に許せなくなっているのは、俺が時代に影響されたからだろうか?ちょっと考えさせられました。
あ、そんなのは些細なことで、寅さんは大好きだよ。
水澤伸治

中村慎一「愛犬チビの話」Shinichi Nakamura

chibi

必要不可欠な出会いでした。
彼女が産まれて2ヶ月目から10歳で死ぬまで一緒に暮しました。本当にかけがえのない10年です。彼女に出会って人生も変わり、辛い日もそばにいてくれて、ありがたい気持ちでいっぱいです。
捨て犬のチビが僕に教えてくれたことは沢山あります。
コロナ禍の中で、もう飼えないからと簡単にペットを捨ててしまう人がいるらしい。そんな奴は最初から飼う資格なんかない。ペットショップでは、人が飼いたい犬を選ぶが、僕はチビに選ばれたんだといつも思っていました。
あの寒い2月の真夜中の道端で僕らは出会いました。チビが真剣に僕を見つめる眼差しを思い出すと、今でも泣いてしまう。裏も表もない純粋な眼差しが僕を本当に切なくさせる。
僕の人生の中で大切な存在。永遠の愛犬チビの話。
中村慎一

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チビにはずい分癒されました。
初めて会ったのは慎一とデコちゃんの白楽のアパートだと思います。
まだ幼かったと思いますが、すぐに慎一とデコちゃんの友達と分かったのでしょう、最初から人懐っこく迎えてくれました。
その日はアパートに泊まらせてもらったのですが、翌朝早くにはまだ寝ている僕らの上にチビが乗っかってきて、「遊ぼうよ」「早く散歩に行こうよ」って言ってるみたいでした。
なんかとても愛しく思いました。
実は僕は幼稚園の頃、通園時に犬に噛まれたことがあります(幼稚園や保護者の間ではちょっとした騒ぎになったようです)。
僕を噛んだことには事情があるのですが、それはさておき、それから僕は「犬は人を噛む」「怖い」という気持ちがずっとありました。
慎一とデコちゃんの家に遊びに行く度、チビは僕を歓迎してくれて、僕の膝の上に乗っかってくつろぐこともありました。
完全に犬に対する「怖い」という気持ちが払拭されて、散歩で連れている犬でも少し避けて歩いていた僕が、ちょっとニコニコ見つめたり、かまってあげたい気持に変わりました。
よく言われると思いますが、動物も人もこちらが「いやだな」とか「苦手だな」と思って接すると、やっぱりそれが伝わってぎこちなくなるようです。
チビに対しては自然に「愛しいな」と思って接していたので、チビも感じてくれたんだと思います。
それにしてもチビは美人さんだよね。
送ってもらった画像を見て改めてそう思いました。
慎一とデコちゃんに愛されたチビの一生は間違いなく幸せだったと思います!
渡辺哲生

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チビは哲生が大好きで、哲ちゃん、くるよって言うと玄関で待ってるくらいでした。哲生には、ドライブに連れて行ってもらったり、ボートに乗せてもらったり、初めての海を見せてもらったり、本当に幸せな経験をたくさんさせてもらいました。
改めてありがとうと言いたいです。チビは自分が犬だという認識がなかったから、いつか哲生のお嫁さんになりたかったのかもしれないな。
夜空を見てください。一番きれいに輝いてる星、それがチビです。いつも彼女の短い一生の間に出会った大好きな人たちの幸せを祈って輝いています。
中村慎一

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